写真に言葉はいらないと思う

写真は僕の中で色んな意味を内包している言葉です。写真をデータとして見ることもあるし、記憶や記録として見ることもありますし様々です。

一番しっくりくるのが、「言語・言葉」として見ている時です。言葉や文字って多くの情報や感情を載せれるので、実は結構危ない武装なんで僕個人では写真に対して使うことは少ないです。

この写真を見て何を思いますでしょうか。

・バスタブ
・シャワー
スク水
・女性
・顔が映っていない
・水
・ストロボの光がある
・胸はない
・スタイルはいい
・おそらく若い
・手

と僕が初見でみるつもりで、考えてもこのぐらいの情報量が入っています。でも、これらはパーツです。

写真を見てみると、さらに「手にフォーカスが来ている」というプラスの情報が見て取れます。これだけで、「もしかすると顔を撮れないはいけない人」なのか「カメラマンが手がいいと思って撮ったのか」なんていう考える余地が生まれます。例えば、見た僕の理解が後者の「手が魅力的に見えたから」という意見に着地します。

あとは個人的な肉付けもあります。それをやっていくと「この写真は、若い女性と撮影しているカメラマンが被写体さんの手とシャワーが面白いと思ってあえて切り取った写真なんだな」という理解が写真に生まれます。ここまで写真について言及するものはないのですが、見た僕がそういう理解をし「言語化」しているというのが紛れもない事実です。

では、これ海外の人ではどうでしょうか?見たものに特に「共感性」がない写真だと思います。スク水って国によってはないだろうし、シャワーヘッドの形も日本特有かもしれない。でも、僕と同じ先の「言葉」に行き着く人はいると思います。

これが僕が写真は言語であるという理由です。他の言語の人であっても写真に対して何かしらの言語化ができる、通ずることができてしまう。

なので、僕は写真のキャプションに言葉などをのせることを自分の投稿などではできるだけしないようにしてます。可能な限り写真だけを見てもらえるように。特にこの写真はカメラマンの意思が大きく作用してます。もし、仮に小粋な詩をキャプションに入れたらどうなるでしょうか?文字の持つ力は非常に大きく、これがもし夜の〇〇なんて入れたら、「あぁ夜の撮影なんだな」という意図してない別の言葉に写真が塗りつぶされるなんてこともあるわけです。

もちろん、写真と言葉で完成するものもあります。広告写真とかまさにそうですよね。キャッチーなコピーが入ってて「可愛い人が栄養ドリンク飲んでる」と元気な写真に見えますが、コピーで「疲れたら!〇〇!」みたいな文字が並んでると「エネルギッシュな人」から「もともと疲れてる人が飲んだらエネルギッシュになる人」にまでイメージやストーリーが変わってしまうわけです。

なので決して悪いことだけではないのですが、もし写真で何かを伝えたいと思うのであれば、写真に即した言葉選びなど、イメージをつける作業として相応にパワーのいる作業があると思っていて、それができる人が職人ぽくて好きだなという話と逆に全くできてないのに、わけのわからん文章を添えてしまうと湾曲した言葉を伝えてしまっているかもという話でした。